演劇の制作者として、福岡にて修行中!
日々考えたことや感じたことを、
なるべくこまめに書いてゆきます。
時々、演劇と関係ないことも書くかも。。

最近のモットーは、『曲線を描く』。
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南無サンダーに出会ってしまった!

日曜夜に、扇貝で南無サンダー『飛脚仕事人』を観た。

観劇後にも連投ツイートしたのですが、火曜になった今もまだ客観の視点を十分に得ている自信がないので、主観たっぷりなのを承知で、もう感想書いてしまおうと思います。
なので、観ていない人には分かりづらい部分も多々あるかと思うのですが、どうかご容赦ください。

 

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とにかく、熱量とか、軸の確かさ(ブレなさ)とかに圧倒された。

かっこつけないことのかっこよさにも魅了された。

しっかりエンターテイメントだった!

荒削りだけど、それを上回るエネルギーで幸福感得た。

 

というのが全体印象。

 

扇貝の空間に合った作品で、あの距離感とサイズじゃないと、おそらく全く違ってしまうだろうなと思った。そう考えると、この作品とこうして出会えた背景に、扇貝という劇場の存在があるわけで。扇貝があってよかったと心から思った。

 

演技とか演出とかの表現は、ある種の伝統みたいな作りの上にあるんだろうと思われたのだけど、その伝統みたいな部分と作品独自のオリジナル部分の塩梅がいい感じだった。
積み重ねられた安定感のある土台(フォーマット)の上で、存分に試みて、暴れているという感じ。
かといって、土台を得ていても、それを自分の表現にする(モノにする)段階までいっていないと、きっとあんなにはやりきれないのだろうし、観客としての心地よさも得られないんじゃないかと思った。そういった意味で、あの表現手法を、作・演出の安部さんが自分のものにしている感じがあったし、役者とも世界観を共有していたなと思う。

 

演劇の表現スタイルが多様になっている中で、新しい表現スタイルの追求とか、言語化されている理論武装に価値を置く面が大きくなってきていたような気がする。そんなタイミングでこの作品に会って、ちょっと最近の自分の価値観を吹き飛ばされた感じがした。(もちろん180度変えられるとかじゃなくて、捉えなおすという意味で)
現代演劇における断絶という課題ともつながる部分があるように思えて、なんか身近なところでその課題が捉え直された。

 

千秋楽(予定だった回)に当たったのも幸運だった。まさかの、もう一度千秋楽を観ることができた。2回目は、1回目と逆側の座席から観て楽しんだ。台詞量が結構多かったので、意外と1回目に聞き漏らしていたところとかあって、2回目に拾えてよかった。

上演時間が1時間くらいだったっていうのも要素として大きいけど、2回観たいと思える作品って、自分としてはあるラインを越えてる証明になる。

チケットのおみくじ、「凶」だったけどっ! (>Д<。

他を知ること。

他ジャンルのことを知っておくことは、演劇を他のジャンルと相対的にとらえて、長所短所を考えたり、特性を理解したりするために必要なのは当たり前のことだと思うのだけど、特にある表現形態が“新しさ”を売りにしている場合、それが本当に新しいのかどうか判断するためにも、他ジャンルのことを知っておくことが必要だなと思った。

そういった“新しさ”というのが、実は演劇の世界で新しいだけで、実はもう他のジャンルでさんざん培われてきたノウハウであったり、成り立つための背景も十分培われて、そのまま借りてきたようなものだったりした場合、やっぱりそれを踏まえて評価すべきだよなぁと思う。

演劇の世界で新しいだけだったとしても、まぁいいと思う。

観客に対して、ジャンルを問わず通用するツールもあるだろうし、それに目をつけて自覚的に取り入れてるのだったら、むしろすごい。
でも、メディアの力で情報が溢れて、ジャンル間を無自覚に横断するなかで、なんとなく自然発生的に生まれた表現を、まるで突然変異の天才みたいにもてはなすのには違和感がある。
そういうのは、他のジャンルのそういう背景を全く知らない人に受けるんだろうなと思う。

そこに、「演劇である」という必然性とか、演劇であることによる特別な価値があればいいなと思う。

借りものの目新しさは、消耗品的なにおいがして、あまり興味がわかない。

役割ふたつに分けるとすると。

理想を示すという役割の人(A)と、現実から理想への階段を具体的に組みあげる人(B)という二つに分けてみるとする。

 

双方は、入れ替わることが可能だけれど、どちらにより向いているかという適性みたいなものは、明らかにある気がする。

なので、厳密に言うと入れ替わることは可能ではないと言えるかもしれないのだけれど、BAになるというルートはよくありそう。というか、多数派な気がする。

AスタートでAという人はいそう。けど、ABという人は少なさそう。

 

理想を示す役割の人の描ける理想が質の高いものになるためには、より広い世界、物理的なところだけじゃなく精神的なところまで広いほうが、選択肢が増え、それによるメリットが大きい気がする。社会に対する広い視野や見識が求められるポジション。

 

一方で、階段を組みあげる役割の人は、現実を確かに見つめることなしには十分に機能しえないので、現場感とも言うべき別の経験や感覚が必要。
でも、それだけでは現状維持しかできないので、何より重要なポイントはその課題があふれた現実から、理想への階段を組み上げるという過程でのクリエイティビティな気がする。

つらつら。

 

先日参加した研修会で思ったこと。

1月後半のことですが、春日市のクローバープラザで開催された「第2回助成事業実務者研修会」に参加しました。

こちらは、23年度から公益財団法人福岡県地域福祉財団というところが実施されていて、11月に第1回が開催されていました。その第1回には私は参加できなかったのですが、参加した人からの内容報告を聞いて大変興味深かったので、第2回にはぜひ参加したいと思っていて、今回やっと参加。文化芸術のジャンルに限らず、広く助成事業というものの運営に関する研修で、第2回のテーマは、「選考実務」と「公募とそれに向けての段取り編」の二部構成でした。

整理された充実のレジュメが、事前にメールで送られてきて、当日は講師のレクチャーの時間と同じくらい参加者からの質疑応答及び参加者同士のディスカッションに時間が割かれました。大抵の研修では、当日レジュメを配られるケースが多いと思うのですが、内容によっては、資料の事前配布が効果的な場合も多々あると思うので、こういった点もセミナーを開催する側としては、毎回適切な判断をしたいところです。

さらにいうと、ごく稀にある不幸なケースだと、会場に実際に足を運んでも、そのレジュメに書かれていること以上の情報はほとんどないというケースもあります…。こういうのに当たるとまあまあ残念。遠方だと、かなり残念。(レジュメに書かれている内容が非常に稀少な情報で、それ自体に大きな価値が感じられるという場合は、この限りではないですけど。)逆に、充実の資料が(PPなどで)既にあるはずなのに、なぜか参加者には配布されないという不親切なケースもありますけどね・・・。

レジュメは事前配布、半分くらいがディスカッションというこのセッティングの効果を最大限にするには、参加者側の意識が高いことが必要だろうと思われ、そういった対象層の正確な捉え方や参加意識のもっていきようというのも、重要だと思いました。

どんなによい講師やプログラムで、参加者側の獲得できるものがより大きくなるよう企画側がセッティングの工夫をしたとしても、それを効果的に成立させるための「参加者側に、それを必要と思う課題認識や向上心」がなければ、成立しないのだと思います。

今回の研修企画の整合性は、“助成事業”という、それこそ 「現状認識/目的/方法/結果」とが整合性を持つことが根幹である事業に関わっている人たちによるものだからかなぁとも思いました。

講師の方も、本当に助成事業に関して見識の深い方のようで、こういった形で、そのご経験からのノウハウを広く供してくださっているのも、とてもありがたいと思った。やはり、数をこなさないと得られない見識というのはどうしてもあるし。

受講の後日、今回の研修を企画された方と何往復かの熱いメールのやりとりをしました。聞けば、ご自身で助成金についての勉強が必要と感じたことが発端で、今回の講師の研修を受けに東京へ行き、自分以外にも同様に現場で課題を抱えている人がいるのではと考えて、今回の研修を一から立ち上げられたのだそう。第1回の開催前には、講師と一緒に参加して欲しい主たる団体を回って、事前調査もされていました。

担当業務に対する重要な責任感と、課題に具体的に気付く力、それを解決する行動力、それを自分の周囲にも広げて捉えなおし相対化してみるという意識、共有を図るための場づくり、その場の充実のための丁寧な働きかけ という全ての点で、素晴らしいと思いました。

こういった気づきをもてる人や、場を実現できる環境というのも実は稀少なのかもしれなくて、まずはそういった人材が、些末なことで埋もれたりこの世界から去っていったりしないようにしたいとつくづく思いました。
多分、今年はこれについてを一番考える年になると思うのですが、縦と横の「よい」つながりが必要なのだと思います。ということで、この「よい」形について色々思案中。

レポートアップのこと&少しUST中継とかのこと。
年末に、昨年11月にFFACで実施した「アートマネジメントセミナー2011『ゼロから知りたい!ドラマトゥルク』」の実施レポートをサイトアップした。
http://www.ffac.or.jp/news/news-doc.asp?did=565



このぐらいのレベルで実施レポートをサイトアップするのは、おそらく自分としては初めてだったと思う。
2時間行なったセミナーだったので、そのまま文字起こしだけするとかなりの文字量になってしまうため、編集して約半分の文字量にして公開した。
編集や校正で、ゲストの長島さんと田辺さんには、お忙しい中にも関わらず大変なご協力をいただくことができ、本当にありがたかった。この場を借りて、改めてお礼を申し上げたいほど!

今回、こうしてレポートを公開したのには、いくつか理由があるのだけど、一つはやはりテーマによるところが大きい。

『ドラマトゥルク』をテーマにしたセミナーは、このセミナーが福岡ではおそらく初めてだったし、現状としては、多くの人にとってまだ馴染みの少ないものだったと思う。けれど、『ドラマトゥルク』という役割が今の創作現場に問いかけるものは非常に多く、また、社会の中での演劇を考える際の根本にもつながるものだと思ったので、ニーズではなくウォンツに対するテーマという認識で、今回選定していた。

公開したレポートは、あくまでも抜粋なので説明不足な点もあるかもしれない。けれど、ああいった形でレポートを公開しておくことで、セミナー開催時点ではまだドラマトゥルクという役割に全く関心も興味もなかった人が、その後に興味もったり必要性を感じたりしてくれた際に、役立つことができればと思う。
それに、新たな世代も次々と入ってくる業界でもあるので、今後この世界に関わる、未だ見ぬ人というのも対象にある。

セミナーなどをはじめとした制作者の研修環境は、やはりまだ十分ではないと感じているし、新たにこの世界に入った人材が研修できる場も非常に限られている。
なので、ドラマトゥルクというテーマに限らず、同じテーマで毎年開催するということはなかなか難しいだろうし、テーマや内容によって、取り扱う適切なスパンみたいなものもあると思うし、そこはきちんと判断するべきだと思う。

当日参加できた人だけでなく、という考え方はつまり、一つの事業・一回の事業での効果を最大限にしたいということでもある。
これは、このテーマやこの事業に限らず考えたい大事なこと。

今回は有料事業ではあったけれど、当日参加してくださった方には、レポートを読むのとは違うレベルでの情報を受け取っていただけたと思っているので、そのあたりの区別はできているのではないかと思う。
有料事業でのレポート公開やUSTでの中継などは、このレベルでの違いがあるという判断や、或いは実施内容から判断して広く共有することの価値が高いと判断される場合だろうと思う。

あぁ、脱線気味になった・・・。本線に戻りまして、

私自身も、何かについて調べる際、以前に他所で実施されたレポートなどがサイトなどで読める状態になっていると大変参考になり、とてもとてもありがたい。

本当にアップしたり、アップし続けたりというのは事務的な負担が大きいことなので、それを思うと本当に頭が下がるし、いつもそのようなレポートアップをされているところには、感謝と尊敬の気持ちでいっぱい。

というわけで。

少しでも興味のある方は、是非ご一読ください(^^)

水の人。
年末年始、鹿児島に帰省していた。
その期間中に、ゼミの恩師の先生とお会いした際、先生が関わっていらっしゃる鹿児島の文化系の集まりにお誘いいただくことができた。

そこでは、美術系・建築系・文学系など実に色々なジャンルから、実演者だったり支援者だったりする方たちが参加されていて、とてもユニークな集まりだったのだけど、鹿児島出身のアーティストで、ヤセ犬でも有名な藤浩志さんもいらっしゃっていた。

そこでは、コアメンバーの方たちそれぞれの活動報告があり、短い時間ながら、藤さんのお話しも伺ったのだけど、その中で、アーティスト(才能)という苗を育てるお話があった。
苗を育てる要素として、風・土・光・水で考えるそうなのだけど、そのお話しが大変興味深かった。

とても短い時間かつかいつまんでのお話だったので正確ではないのだけど、アーティスト(才能)に関わる存在としての、水と光についてのお話だった。

藤さんのこちらの
Blogエントリーが分かりやすそうなのだけど、

とにかく、土の人、風の人、水の人、光の人 と、苗に対してそれぞれに担う役割があって、

「興味や関心を注ぐ人=水」
「メディアで紹介したり、文字通り光を当てていく人=光」

といった感じだった。(注:超ざっくり)

Blogから少し引用させていただくと、

"地域の苗を育てる水と光は「興味」と「関心」そして「批判」”

というようなお話もあって、演劇で言うと、水は、きっと観客や私たちアートマネージャーなのだろうなと思う。

水は、多すぎても少なすぎてもいけない。
その土地の質に対して、浸透できることもきっと必要で。
離れられない土と苗の関係に対して、水と苗の関係はやはり違うだろうと思う。風も。

それでも、その「水の人」として、どのような水になれるか。
どこまで浸透できるか。
水として関わり続けることができるか。

の意識は、苗の変化に大きく影響するだろう。とか考えた。

藤さんは、福岡でもアトリエをもっていらして、
海の家を建てていらっしゃる途中。
こちらも気になる。



ひとつひとつにこだわらないと、やっぱ上がっていかない。

作品づくりの現場でも、制作の仕事でも、小さなことひとつひとつにこだわらないと、やっぱ上がっていかないように思う。丁寧に仕事する というのとは、ちょっと違うニュアンスで。

まぁ、こだわるのは当たり前とも言えるので、こだわるかこだわらないかというよりも、こだわり方のほうが実際には検討すべきところなのだけども。

作品作りの現場で例えると、ほとんどの観客にはその違いが認識されにくそうな部分というのがある。けれど、その部分が、芝居にとって根本的な要素であればあるほど、観客側がそれを具体的に分析するようなことはなくても、観客が芝居全体から感じるとるものに影響する部分が確かにあるんじゃないだろうか。
つまり、何かしらの感動が得られるかどうかというのが、この部分にかかっているケースも多いのではないかと思う。もちろん他の何かしらの魅力が、そこをカバーして余りあるケースもあると思うけど。

だから、そういう部分をなんとかしたい。
私は、作家でも演出家でもないので、アートマネージャーとして制作者としてその解決に向きあうことをしたい。


2011年振り返り

2011年も、いよいよ終わりですね。

毎年同じ長さで一年が過ぎているはずなのに、今年は特に、どんどん塗り替えられていく記憶とか変わっていく感覚とか、自分の変化に気付かされる一年でした。

私の距離感で出会えたこと、出会えなかったこと。
出会えた人、出会えなかった人。

いつまでも、新たなことと出会いたいと思う気持ちを大事にしようと思いました。
たとえ、それが大変なことやつらいことでも。
きっと出会うべくして出会ったこと。
そのことを、よくするも悪くするも、自分次第だろうと思うので。

現実的な半径10mの世界で言えば、勤務先が変わったことは大きな変化でした。
新しい環境、新しい人間関係からは学ぶことも多くて、かえって自分自身を捉えることもできたなぁと思います。

与えられていることに感謝して、それでも貪欲に。
まあ、そのあたりのバランスは難しいですが、来年も頑張ろうと思います。

たくさんの人や、たくさんの人の変化に出会える一年になりますように。

大事な人や大事なことをちゃんと大事にしていける一年になりますように。

ブログの更新頻度も、ちゃんと上げていこうと思います(笑)

皆さま、どうぞよい新年を。

一つでも多く、笑顔が生まれますように。


片想いから脱却するには。
いきなりですが、片思い的な状況が、この仕事ではよくある気がします。(笑)
 
それは、私のような支援団体側とアーティスト(活動者)の間でだったり、それぞれと観客との間でだったり。
届きそうで届かないメッセージがもどかしかったり、受け止めてもらえずに残念だったり、或いは腹立たしかったりということを、それぞれの立場の人が、実は結構経験したことがあるんじゃないかと思う。(もちろん、“伝えたいことがある”場合 という前提での話。)
 
でも、きっとそこで鍵になっているのは、『伝わる関係性』の上で、『伝わる言葉』で伝えられているのかどうか という点なんじゃないか。と改めて思う。
 
相手に届けるためには、耳を傾けてもらえる関係性を築くことがやっぱりまず必要で、それは直接に面識があるかとか仲がいいのかとかいうことも多少影響するかもしれないけれど、根底的なところは、その人の発する言葉が相手にとって一定の信頼性があるかどうかということだと思う。或いは、その言葉の奥に相手や何かへの純粋な愛情があるのかとか。

信頼性は権威性とイコールでもないし、その人が普段どういった姿勢で物事に関わっているのかとか、相手に対してその人がどういった位置関係で存在しようとしているのかといった、その人の背景にみえる価値観・人格みたいなもののほうがむしろ相手の判断に影響するんじゃないかと思う。

だから、本当の意味で『伝えたい』と思ったら、『伝えられる関係性』と『伝えられる言葉』を持たないといけないんだと思う。

誰が何を発するかも自由。
それを受け入れる受け入れないも自由。
これ↑が、そもそもの状態だとするならば。

『発すること』が目標なら、言葉に、文字にした瞬間に、一人で達成できる⇒達成確率100%
『伝えること』が目標なら、相手が必要。その上で、伝え方や関係性によってできたりできなかったりする。⇒達成確率50%?

本当の意味で『伝えたい』と思うなら、或いはさらに別の段階として、『伝えること』そのものが目標なのではなく、『伝えた後の変化』とかその先にある何か大きなことが最終目標なのならば、やっぱり『伝わる関係性』と『伝わる言葉』を得なくては、達成確率を上げていくことはできないんだろうなと思う。


『伝える』ためには、相手の在り様も捉えないといけない。
おもねる必要はないし、全てを知る必要もないけれど、相手の立場や考え方を想像する力はきっと必要。相手のすべてを受け入れる必要はなくても、事実として受け止める必要はある気がする。理解と共感は別段階だし。
それらをしないまま、一方的に発し続けるのは、私にはあまり建設的とは思えないし、ひょっとするとそれは、本当の意味では『伝えること』を目標としていない行為なのかもしれないとも思う。

逆に考えると、誰が何を発するのかとか、その発し方がどうあるべきなのかっていうのも、最終的な目標が何なのか によって答えが違うと言えるのかもしれない。

なんというか。
自己愛じゃなくて、ちゃんと相手や何かへの愛情があるのなら、やっぱ両想いになりたいよね、という話(?)。




どうして、今回『ドラマトゥルク』なのか??
今週末の12日(土)夕方に、アートマネジメントセミナーとして「ゼロから知りたい!ドラマトゥルク」を開催する。

 

ドラマトゥルクというのは、“共同創作者”や“アーティストの知的パートナー”とも訳される創作現場における役割のひとつ。(元々は、ドイツ発祥なのだそう。)

2005年くらいから“ドラマトゥルク”というクレジットのある作品が東京で創作される作品を中心にちらほらと見かけられるようになって、今までに段々と増えてきているのだけど、福岡・九州ではまだ馴染みが薄く、その具体的な役割もあまり知られていないだろうと思う。

 

そんな中、なぜ今回のセミナーで『ドラマトゥルク』をテーマにしたのか、ちょっと書いてみることにする。

 

“ドラマトゥルク”を置くというのは、つまり、創作現場(座組み)に明確なある役割をもったポジションを一つ置くということで、それは創作環境を豊かにしようとする時の一つの選択肢だと思う。(例えば、「ちゃんと舞監を置こう」というのと同じような感じだと思う)

 

作品の成立の仕方には色々あり、絶対的な正解もないけれど、どのような作風であれ、作品を深めたり、その強度を増したりということは志向していると思う。そして、それを実現させるための方法論や選択肢は多くの中から考えられたほうがいい。

 

けれど、どんなに良い方法論や選択肢も、知らないことには選択することができない。

例えがちょっと違うかもしれないけれど、どんなに便利な商品がこの世に存在していても、その存在すら知らなければ、求めることも、ましてや手にすることもできない。

 

だからまずは、今回のセミナーで“ドラマトゥルク”を知ってほしい。(これは、このことに限らず全般的に思っていることだけど)知った上で選択してほしい。

 

今回のセミナーでは、ドラマトゥルクの創作現場での具体的な役割から、作家・演出家との関係性、演出助手や制作者・プロデューサー等との違いや重なる部分は何か といったことまでを、時間の許す限り、まさしくゼロから紹介していきたい。


ゲストは、日本におけるドラマトゥルクの先駆け的存在である長島確さんと、自身も劇作家・演出家でありながら、ドラマトゥルクも務める田辺剛さんというお二人。

日時は、12日(土)16301830。終了後には、会場で簡単な交流会も行う。

会場は、博多リバレイン地下2階のカフェアートリエ。

 

詳しくは、http://www.ffac.or.jp/workshop/workshop-doc.asp?did=475