演劇の制作者として、福岡にて修行中!
日々考えたことや感じたことを、
なるべくこまめに書いてゆきます。
時々、演劇と関係ないことも書くかも。。

最近のモットーは、『曲線を描く』。
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レポートアップのこと&少しUST中継とかのこと。
年末に、昨年11月にFFACで実施した「アートマネジメントセミナー2011『ゼロから知りたい!ドラマトゥルク』」の実施レポートをサイトアップした。
http://www.ffac.or.jp/news/news-doc.asp?did=565



このぐらいのレベルで実施レポートをサイトアップするのは、おそらく自分としては初めてだったと思う。
2時間行なったセミナーだったので、そのまま文字起こしだけするとかなりの文字量になってしまうため、編集して約半分の文字量にして公開した。
編集や校正で、ゲストの長島さんと田辺さんには、お忙しい中にも関わらず大変なご協力をいただくことができ、本当にありがたかった。この場を借りて、改めてお礼を申し上げたいほど!

今回、こうしてレポートを公開したのには、いくつか理由があるのだけど、一つはやはりテーマによるところが大きい。

『ドラマトゥルク』をテーマにしたセミナーは、このセミナーが福岡ではおそらく初めてだったし、現状としては、多くの人にとってまだ馴染みの少ないものだったと思う。けれど、『ドラマトゥルク』という役割が今の創作現場に問いかけるものは非常に多く、また、社会の中での演劇を考える際の根本にもつながるものだと思ったので、ニーズではなくウォンツに対するテーマという認識で、今回選定していた。

公開したレポートは、あくまでも抜粋なので説明不足な点もあるかもしれない。けれど、ああいった形でレポートを公開しておくことで、セミナー開催時点ではまだドラマトゥルクという役割に全く関心も興味もなかった人が、その後に興味もったり必要性を感じたりしてくれた際に、役立つことができればと思う。
それに、新たな世代も次々と入ってくる業界でもあるので、今後この世界に関わる、未だ見ぬ人というのも対象にある。

セミナーなどをはじめとした制作者の研修環境は、やはりまだ十分ではないと感じているし、新たにこの世界に入った人材が研修できる場も非常に限られている。
なので、ドラマトゥルクというテーマに限らず、同じテーマで毎年開催するということはなかなか難しいだろうし、テーマや内容によって、取り扱う適切なスパンみたいなものもあると思うし、そこはきちんと判断するべきだと思う。

当日参加できた人だけでなく、という考え方はつまり、一つの事業・一回の事業での効果を最大限にしたいということでもある。
これは、このテーマやこの事業に限らず考えたい大事なこと。

今回は有料事業ではあったけれど、当日参加してくださった方には、レポートを読むのとは違うレベルでの情報を受け取っていただけたと思っているので、そのあたりの区別はできているのではないかと思う。
有料事業でのレポート公開やUSTでの中継などは、このレベルでの違いがあるという判断や、或いは実施内容から判断して広く共有することの価値が高いと判断される場合だろうと思う。

あぁ、脱線気味になった・・・。本線に戻りまして、

私自身も、何かについて調べる際、以前に他所で実施されたレポートなどがサイトなどで読める状態になっていると大変参考になり、とてもとてもありがたい。

本当にアップしたり、アップし続けたりというのは事務的な負担が大きいことなので、それを思うと本当に頭が下がるし、いつもそのようなレポートアップをされているところには、感謝と尊敬の気持ちでいっぱい。

というわけで。

少しでも興味のある方は、是非ご一読ください(^^)

水の人。
年末年始、鹿児島に帰省していた。
その期間中に、ゼミの恩師の先生とお会いした際、先生が関わっていらっしゃる鹿児島の文化系の集まりにお誘いいただくことができた。

そこでは、美術系・建築系・文学系など実に色々なジャンルから、実演者だったり支援者だったりする方たちが参加されていて、とてもユニークな集まりだったのだけど、鹿児島出身のアーティストで、ヤセ犬でも有名な藤浩志さんもいらっしゃっていた。

そこでは、コアメンバーの方たちそれぞれの活動報告があり、短い時間ながら、藤さんのお話しも伺ったのだけど、その中で、アーティスト(才能)という苗を育てるお話があった。
苗を育てる要素として、風・土・光・水で考えるそうなのだけど、そのお話しが大変興味深かった。

とても短い時間かつかいつまんでのお話だったので正確ではないのだけど、アーティスト(才能)に関わる存在としての、水と光についてのお話だった。

藤さんのこちらの
Blogエントリーが分かりやすそうなのだけど、

とにかく、土の人、風の人、水の人、光の人 と、苗に対してそれぞれに担う役割があって、

「興味や関心を注ぐ人=水」
「メディアで紹介したり、文字通り光を当てていく人=光」

といった感じだった。(注:超ざっくり)

Blogから少し引用させていただくと、

"地域の苗を育てる水と光は「興味」と「関心」そして「批判」”

というようなお話もあって、演劇で言うと、水は、きっと観客や私たちアートマネージャーなのだろうなと思う。

水は、多すぎても少なすぎてもいけない。
その土地の質に対して、浸透できることもきっと必要で。
離れられない土と苗の関係に対して、水と苗の関係はやはり違うだろうと思う。風も。

それでも、その「水の人」として、どのような水になれるか。
どこまで浸透できるか。
水として関わり続けることができるか。

の意識は、苗の変化に大きく影響するだろう。とか考えた。

藤さんは、福岡でもアトリエをもっていらして、
海の家を建てていらっしゃる途中。
こちらも気になる。



ひとつひとつにこだわらないと、やっぱ上がっていかない。

作品づくりの現場でも、制作の仕事でも、小さなことひとつひとつにこだわらないと、やっぱ上がっていかないように思う。丁寧に仕事する というのとは、ちょっと違うニュアンスで。

まぁ、こだわるのは当たり前とも言えるので、こだわるかこだわらないかというよりも、こだわり方のほうが実際には検討すべきところなのだけども。

作品作りの現場で例えると、ほとんどの観客にはその違いが認識されにくそうな部分というのがある。けれど、その部分が、芝居にとって根本的な要素であればあるほど、観客側がそれを具体的に分析するようなことはなくても、観客が芝居全体から感じるとるものに影響する部分が確かにあるんじゃないだろうか。
つまり、何かしらの感動が得られるかどうかというのが、この部分にかかっているケースも多いのではないかと思う。もちろん他の何かしらの魅力が、そこをカバーして余りあるケースもあると思うけど。

だから、そういう部分をなんとかしたい。
私は、作家でも演出家でもないので、アートマネージャーとして制作者としてその解決に向きあうことをしたい。


2011年振り返り

2011年も、いよいよ終わりですね。

毎年同じ長さで一年が過ぎているはずなのに、今年は特に、どんどん塗り替えられていく記憶とか変わっていく感覚とか、自分の変化に気付かされる一年でした。

私の距離感で出会えたこと、出会えなかったこと。
出会えた人、出会えなかった人。

いつまでも、新たなことと出会いたいと思う気持ちを大事にしようと思いました。
たとえ、それが大変なことやつらいことでも。
きっと出会うべくして出会ったこと。
そのことを、よくするも悪くするも、自分次第だろうと思うので。

現実的な半径10mの世界で言えば、勤務先が変わったことは大きな変化でした。
新しい環境、新しい人間関係からは学ぶことも多くて、かえって自分自身を捉えることもできたなぁと思います。

与えられていることに感謝して、それでも貪欲に。
まあ、そのあたりのバランスは難しいですが、来年も頑張ろうと思います。

たくさんの人や、たくさんの人の変化に出会える一年になりますように。

大事な人や大事なことをちゃんと大事にしていける一年になりますように。

ブログの更新頻度も、ちゃんと上げていこうと思います(笑)

皆さま、どうぞよい新年を。

一つでも多く、笑顔が生まれますように。


片想いから脱却するには。
いきなりですが、片思い的な状況が、この仕事ではよくある気がします。(笑)
 
それは、私のような支援団体側とアーティスト(活動者)の間でだったり、それぞれと観客との間でだったり。
届きそうで届かないメッセージがもどかしかったり、受け止めてもらえずに残念だったり、或いは腹立たしかったりということを、それぞれの立場の人が、実は結構経験したことがあるんじゃないかと思う。(もちろん、“伝えたいことがある”場合 という前提での話。)
 
でも、きっとそこで鍵になっているのは、『伝わる関係性』の上で、『伝わる言葉』で伝えられているのかどうか という点なんじゃないか。と改めて思う。
 
相手に届けるためには、耳を傾けてもらえる関係性を築くことがやっぱりまず必要で、それは直接に面識があるかとか仲がいいのかとかいうことも多少影響するかもしれないけれど、根底的なところは、その人の発する言葉が相手にとって一定の信頼性があるかどうかということだと思う。或いは、その言葉の奥に相手や何かへの純粋な愛情があるのかとか。

信頼性は権威性とイコールでもないし、その人が普段どういった姿勢で物事に関わっているのかとか、相手に対してその人がどういった位置関係で存在しようとしているのかといった、その人の背景にみえる価値観・人格みたいなもののほうがむしろ相手の判断に影響するんじゃないかと思う。

だから、本当の意味で『伝えたい』と思ったら、『伝えられる関係性』と『伝えられる言葉』を持たないといけないんだと思う。

誰が何を発するかも自由。
それを受け入れる受け入れないも自由。
これ↑が、そもそもの状態だとするならば。

『発すること』が目標なら、言葉に、文字にした瞬間に、一人で達成できる⇒達成確率100%
『伝えること』が目標なら、相手が必要。その上で、伝え方や関係性によってできたりできなかったりする。⇒達成確率50%?

本当の意味で『伝えたい』と思うなら、或いはさらに別の段階として、『伝えること』そのものが目標なのではなく、『伝えた後の変化』とかその先にある何か大きなことが最終目標なのならば、やっぱり『伝わる関係性』と『伝わる言葉』を得なくては、達成確率を上げていくことはできないんだろうなと思う。


『伝える』ためには、相手の在り様も捉えないといけない。
おもねる必要はないし、全てを知る必要もないけれど、相手の立場や考え方を想像する力はきっと必要。相手のすべてを受け入れる必要はなくても、事実として受け止める必要はある気がする。理解と共感は別段階だし。
それらをしないまま、一方的に発し続けるのは、私にはあまり建設的とは思えないし、ひょっとするとそれは、本当の意味では『伝えること』を目標としていない行為なのかもしれないとも思う。

逆に考えると、誰が何を発するのかとか、その発し方がどうあるべきなのかっていうのも、最終的な目標が何なのか によって答えが違うと言えるのかもしれない。

なんというか。
自己愛じゃなくて、ちゃんと相手や何かへの愛情があるのなら、やっぱ両想いになりたいよね、という話(?)。




どうして、今回『ドラマトゥルク』なのか??
今週末の12日(土)夕方に、アートマネジメントセミナーとして「ゼロから知りたい!ドラマトゥルク」を開催する。

 

ドラマトゥルクというのは、“共同創作者”や“アーティストの知的パートナー”とも訳される創作現場における役割のひとつ。(元々は、ドイツ発祥なのだそう。)

2005年くらいから“ドラマトゥルク”というクレジットのある作品が東京で創作される作品を中心にちらほらと見かけられるようになって、今までに段々と増えてきているのだけど、福岡・九州ではまだ馴染みが薄く、その具体的な役割もあまり知られていないだろうと思う。

 

そんな中、なぜ今回のセミナーで『ドラマトゥルク』をテーマにしたのか、ちょっと書いてみることにする。

 

“ドラマトゥルク”を置くというのは、つまり、創作現場(座組み)に明確なある役割をもったポジションを一つ置くということで、それは創作環境を豊かにしようとする時の一つの選択肢だと思う。(例えば、「ちゃんと舞監を置こう」というのと同じような感じだと思う)

 

作品の成立の仕方には色々あり、絶対的な正解もないけれど、どのような作風であれ、作品を深めたり、その強度を増したりということは志向していると思う。そして、それを実現させるための方法論や選択肢は多くの中から考えられたほうがいい。

 

けれど、どんなに良い方法論や選択肢も、知らないことには選択することができない。

例えがちょっと違うかもしれないけれど、どんなに便利な商品がこの世に存在していても、その存在すら知らなければ、求めることも、ましてや手にすることもできない。

 

だからまずは、今回のセミナーで“ドラマトゥルク”を知ってほしい。(これは、このことに限らず全般的に思っていることだけど)知った上で選択してほしい。

 

今回のセミナーでは、ドラマトゥルクの創作現場での具体的な役割から、作家・演出家との関係性、演出助手や制作者・プロデューサー等との違いや重なる部分は何か といったことまでを、時間の許す限り、まさしくゼロから紹介していきたい。


ゲストは、日本におけるドラマトゥルクの先駆け的存在である長島確さんと、自身も劇作家・演出家でありながら、ドラマトゥルクも務める田辺剛さんというお二人。

日時は、12日(土)16301830。終了後には、会場で簡単な交流会も行う。

会場は、博多リバレイン地下2階のカフェアートリエ。

 

詳しくは、http://www.ffac.or.jp/workshop/workshop-doc.asp?did=475

 

 

 

日常の“当たり前”のラインを上げる。
地域演劇活動者への取り組みにおいて、一時的な刺激は長続きしない。
或いは、刺激による成果は長続きする確率が低い。
ということを、もうだいぶ前から痛感している。

もちろん、「一時的な刺激」といっても、期間や内容なども様々でその成果はピンキリなので、一概に評価することはできないし、「きっかけ」としての価値は多くのものが持ちうると思う。
それはそれで一定の価値があるのも分かっているけれど、今の福岡には、もっとその後に残り、地域で活き続けるものが必要なのではないかと感じる。

―もっとその後に残り、地域で活き続けるものとは何か。

それは、地域での“当たり前のライン”を変化させることではないかと思う。

福岡で芸術活動をする人、そしてその先の観客との関係を考えていく場合には、必ず長期ビジョンを伴う。
“当たり前のライン”をどう上げていくかということは、この長期ビジョンの達成にも大きく影響する。

“当たり前のライン”というのは、例えば、劇作家として、演出家として、役者として、制作者として、日常意識すべきこと・考えるべきこと・取り組むべきことといった姿勢みたいなもの。

特に、演劇は作品創造に長い期間を要するものなので、これらが一時的に高まったところで、得られる成果には限界がある。一作一作と重ねていく中で、さらにはその一作と一作の間をも含んだ“長期”にわたって“当たり前”のラインを日々高めながら維持し、作品創造へと反映させていくことが必要なのではないだろうか。

また、演劇が団体による表現活動であることもあり、そのことはより多くの人に共有されることが重要だ。
劇団内ではもちろん、劇団を越えて、地域で活動する者同士で、より高いラインでの“当たり前”を共有することができれば、本当に素晴らしいと思う。
飲み会の場で、“当たり前”に互いの演劇論を語りあう、何かの作品について熱く語りあう程になれば、維持されていると言えるだろうと思う。

“当たり前のライン”を下げるのは容易い。楽な方向へと流れるのは容易い。
だからこそ、相互に“当たり前”を高めあうような、競いあうような関係性が、より多数存在することが重要なのではないだろうか。


*もちろん、ここでの「当たり前」というのは「常識」と同義ではなく、個人個人の思想・思考の違いによるオリジナリティを否定するものではなく。

縦軸と横軸。今、いるところ。
商業演劇といわれるジャンルに関わっている人たちが果たしている役割がある。
小劇場系演劇といわれるジャンルに関わっている人たちが果たしている役割がある。

その中で、民間劇場も公共劇場も、団体も個人も、それぞれの立ち位置で役割を果たしている。

今のこれらの関係性を横軸と捉える、そうすると縦軸は、世代で歴史だと思う。

私たちが今、活動している環境は、前の世代が、歴史が作ってくれたもの。

もちろん、その中にマイナスといえるものもあるだろうけれど、私たちがここからスタートできているのは、その前を担ってくれた人たちがいるから。

だから、大切なのはきっと、縦軸と横軸をきちんと意識して日々のことに取り組んでいくこと。
縦軸と横軸を、自分の半径10KMや50KMや100KMの世界にも置き換えて、その都度、自分の位置を捉えて、今果たすべき役割を考えること。
縦軸と横軸を無関係なものとしてしまわず、有効に機能させていくこと。

長い長いスパンで捉えると、自分が担える時間は本当に限られている。
だからこそ、一日一日を無駄にできない。
一つ一つのチャンスをふいになんてできない。
一つ一つが小さなことでも、一つずつ積み重ねていかなきゃ、どうにもならない。
フィールドが変わって、半年。

春先に職場が変わって、半年が過ぎました。
半年・・・あっという間でしたが、フィールドが変わるということを日々実感しています。

フィールドが変わると、新たに関わる人が多くなるのですが、ここに大きい喜びがあります。
何かを実現できるのは、発想力と人の力であり、私の場合、発想力も人との出会いに多く影響を受けていると思うので。

あと、組織内での担うべき役割が違うということもあり、注力する点や時間の使い方がこれまでと大きく違っているのも、とても新鮮です。

ありがたいことに柔軟性のある状態で企画をさせてもらえていますし、新たな発見やチャレンジも多く、比較的順調な毎日です。

ですが、制作者として、常に欠落感・欠乏感を持ち続けることが重要と思っています。常に現状に問うことをしていかねば。そして、動いていかねば。と。

よく「〜すべき」「〜せねば」よりも「〜したい」の感情で行動するのがよいと聞きますが、どうしても私は「べきべき」言ってしまいがちです。
ある意味、自由人じゃないのかもしれません。
でも、そうやって整理して思考することが、起動するために必要なタイプの人間みたいなので、それで行くしかないか・・・と思います。
とりあえず、他の人に「べきべき」論を強要することはしないようにしますが(笑)

正直今はまだ全力で動けているという感覚ではないので、自分でももどかしい気持ちはありますが、長い長い演劇制作者としての道。
その途中であるこの地点、フィールドを変えての今年一年は、じっくり準備してよい期間だろうと思っています。

九州戯曲賞から/環境と効果について。
週末は九州戯曲賞の最終審査会でした。

受賞作品も決定 ⇒ 
http://www.krtc.info/


毎回、審査会後には、審査員と候補者各5名を中心とした懇親会があるのだけど、この場で候補者一人ひとりが審査員から作品に対する言葉を直接且つ深いところでもらえることもまた、この九州戯曲賞にとって大事なポイントになっていると思う。

懇親会の中で候補者の一人の方から、「今回受賞を逃したことは悔しいけれど、最終候補に残れたことで書き続けていくことへの許可をもらったような想いがする」という主旨のコメントがあった。
聞けば、その方が地域で書き続けていくにはなかなか周囲の理解との葛藤があるのだということだった。そして別の県の方もそのことに強く同意されていた。

演劇活動を行なっていくときに、周囲の人からの理解を得るという、ある種の戦いがある。
むろん、それは一人ひとりが自分の活動成果によって得ていくしかないと言ってしまえるのだろうが、そういったレベルでないところでの葛藤もあるのかもしれない。

それに対して、審査員から、「そういう意味(周囲からの理解という点)では東京だって大阪だってあるね。」との意見とそれに続けて、「だけどきっとそのレベルがやはり地域によって違うのだろう」という意見があった。本当にそうだと思う。

一口に“九州”と言っても、各作家が置かれている状況は大きく違う。共通する課題もあるが、個別の課題も少なくない割合を占めているだろう。

具体的には、観客層とまで言わずとも演劇に親しんでいる人がどの程度いるのか、とか、その人が生活する地域がどのような価値観で形成されている社会なのか などだろう。
そういった環境要因に全て帰結させるのをよしとするわけではもちろんないが、そこを乗り越える強さも各地の劇作家に必要とされていることは確かなことだろう。

審査員の方にしてみれば、「そういった戦いはどこにだってある」と仰ることも可能だし、事実そうとも言えるのだけど、実際に存在するであろう地域間での差について細やかな視点をもち、その可能性を認めたうえでの発言をして下さる審査員に、尊敬の念を新たにした。

このように各地で、様々な状況下で作品を生み出すという活動をしている人たちにとって、「九州戯曲賞」が目指す一つのステージであればと思う。
書き続ける活動を支える、一つのピースになることもあるのではないか、と思うし、あれば本当に嬉しい。

とにかくは設立から関わっている一人として、「九州戯曲賞」の3回目を無事終えられたことに一安心。
ここまでを支えてくださっている関係者全員に心から感謝している。